西方寺について

西方寺の歴史

この寺の起源は今より千三百年前奈良白鳳時代にさかのぼります。
当初は法相宗の寺院でしたが、鎌倉~室町の戦乱期に幾度と無く焼失しました。
天文~永禄年間、四十八ヶ寺復興の折、僧行明はここに浄土宗寺院を建立しました。
雄大かつ荘厳な伽藍であったと『筑陽記』に記されています。
正面を西向きにした現本堂は大正十三年の建立ですが、妻入り入母屋形式は見事です。

歴代住職

開山念譽行明 / 永禄六年 五月九日 入寂
二世泉譽梵惠 / 天正四年 三月日 入寂
三世深譽周慶 / 寬永十一年 五月九日 入寂
四世宗譽了白 / 万治二年 六月四日 入寂
五世春譽壽芳 / 延寶四年 五月十九日 入寂
六世本譽左道 / 元祿元年 十一月八日 入寂
現在顕譽光洋(三十五世) / 平成十五年 十月~

ご本尊について

平重盛が本尊と崇めていた阿弥陀像

ご本尊は行基作と伝わっています。
元々噂に霊験あらたかな阿弥陀佛像であったことから、源平の時代に平重盛がこれを護り本尊とし崇めていました。
源氏に追われた平家は西海に流され、壇ノ浦で最期を迎えました。佛像はその後大宰府に残され、国司によって筑前天山の御堂に安置されました。
さて、康安元年(1361年)、大宰府の主大鳥居信高は、筑後水田庄に館を建て、筑前・筑後・肥前・肥後・豊後の五国に天満宮領を抱え、威をふるっていました。

大鳥居家に不思議な家運をもたらす

時に応安元年(1368年)、筑前・筑後の守護職少貮冬資はその立場を利用してこともあろうに天神山の木を乱伐していました。この行為に社徒や社僧数百人が冬資打倒を決意。冬資はこれを知り憤り大軍をもって武備無き彼らを壊滅に追い込むのでありました。社徒の大将大鳥居氏も矢を受けこの時命を落とします。
その子亀松丸は母の懐にもぐり御輿で裏門より逃れています。水田庄を目前に後を振りかえると、少貮冬資の軍勢がすぐ背後まで追っていていました。慌てて進路を変え、天山の阿弥陀堂に逃れたのです。もはやこれまでかと二人は堂内で一心に阿弥陀佛に縋るのでした。
「私共は天神本地の極樂教主と一体分身です。今一度命をお救いいただけるものならば、あなた様を水田庄の館に御安置申し上げ、大鳥居家の御本尊として永遠に崇め奉ります」と祈念しました。すると佛身より無量の光が発せられ、光は霊空に届き、次の瞬間黒雲が天を埋め尽くし激しい豪雨を降らせました。更に裂けんばかりの雷鳴が轟き、落雷は追っ手の軍旗竿にめがけ次から次へと閃光を結んだのです。恐れをなした軍勢は散り散りに退散、亀松丸と母は間一髪一命を取り留めました。
大鳥居家にこの不思議な家運をもたらした出来事から光雲院と号し、大鳥居家の御本尊となり、その後明治二十五年この本尊は今の西方寺に帰ったのです。
まさに御本尊の見守りにより、歴代上人と檀信徒によって今日まで護り継がれてきました。

浄土宗とは

名前 浄土宗(じょうどしゅう)
宗祖 法然上人(ほうねんしょうにん・1133~1222年)
開祖 鎌倉時代 承安五年(1175年)
本尊 阿弥陀如来
称名 南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)
教義 一心に阿弥陀如来のお誓い(本願)を深く信じ、南無阿弥陀仏を称えることによって、どんな罪深い者でも一切の苦しみから済われ、明るく安らかな毎日を送ることができ、その身ままで立派な人間へと向上し浄土(西方極楽浄土)に生まれることができる教えです。
お経 お釈迦さまがお説きになった「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」(西方極楽浄土へ往生させていただける身の上になる教え)等の諸経典を読誦します。
総本山 知恩院(京都)
大本山 増上寺(東京)・善光寺大本願(長野)・光明寺(鎌倉)・知恩寺(京都)・金戒光明寺(京都)・清浄華院(京都)・善導寺(久留米)
特別寺院 誕生寺(岡山)
宗歌 月かげのいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ

行蓮社念譽覚阿行明上人略伝 室町戦国時代の高僧

1501年 文亀元年 1歳 誕生 豊後国臼杵 大友家臣 通称 : 次郎 諱 宗明
1517年 永正十四年 7歳 浄土宗西山派本願寺にて剃髪
1527年 大永七年 同地浄土寺、行満慈法上人の弟子を師僧として修行
1528年 亨禄元年 28歳 西山流安心の懐疑により、西山派を脱し曽根浦を離れ肥前に赴く
1532年 天文元年 32歳 浄土宗第三祖良忠上人開山鎌倉光明寺にて礼学研鑽を積む
荒廃した大乗寺(当時法相宗、 現在の福岡市冷泉小学校付近) を浄土宗として再興修復する
1541年 天文十年 41歳 住吉妙円寺開山二代となる弟子行満にまかせ四十八願起立の聖業が始まる
天文年間 42~54歳 天山・西方寺起立他に天文~永禄年間にて正法寺、通津寺、阿弥陀寺、無量寺、西専寺、浄土院、西林寺、寿福院、摂取寺、常福寺、安養寺などの寺院を起立
1555年 弘治元年 55歳 弘治~永禄の頃、宮田極楽寺再興
1558年 永禄元年 58歳 再び大乗寺にもどられ四十八起立の志願成満
1562年 永禄五年 62歳 大乗寺内稲荷堂に宝珠をまつる
筑後、専修寺に隠棲
1563年 永禄六年 63歳 五月九日専修寺にて入寂

※妙円寺第二十六世(龍天山西方寺三十一世)了誉圓真上人謹誌『念譽行明上人 略傳』並びに『蓮門精舎旧詞』『光明寺誌』を参考とする。